「生類憐れみの令」を知っていますか?これは「しょうるいあわれみのれい」と読みますが、耳にしたことがある人もいるのではないでしょうか。
5代将軍の徳川綱吉によって発布された「犬を極端に大切にするよう命じた法令」といえば、内容を思い出す人もいることでしょう。犬ばかりを大切にした「天下の悪法」と呼ぶ人もいます。
今回は、そんな生類憐れみの令について、わかりやすく解説します。
この記事を読めば、生類憐れみの令のことだけでなく、この法令が江戸時代に与えた影響についても理解できるようになりますよ!
生類憐れみの令とは?条文の原文にあわせて目的・内容を解説
「生類憐れみの令」とは、生きている物を大切にしようという法律のことです。
「生類」とは「生き物」、「憐れみ」とは「大切にしたい、かわいそうだと思う心」という意味です。
実は、「生類憐れみの令」という法律はありません。江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉(1680-1709年)によって発令された「生き物を憐れむ」法令を、まとめてこう呼んでいます。
綱吉の時代には、「生き物を憐れむ」法令が100本以上発令されています。
たとえば、1682年には「犬を虐殺したら極刑」と発令していますし、1685年には「将軍が通るときに、犬や猫を繋ぎ止めなくてもいい」という法令も出されています。
それでは、この生類憐れみの令について学んでいきましょう!
①悪法で知られているが、捨て子や病人の保護目的だった
生類憐れみの令について、教科書や参考書では「人々の生活を圧迫」「極端な動物愛護」「綱吉は犬公方(いぬくぼう)」「人の命より犬の命が大切」などと説明されることが多いです。
「天下の悪法」と呼ばれるなど、あまりよい評価はありませんでした。
ところが1687年の条文では、犬だけでなく赤子(捨て子)、病人などの社会的に弱い人たちも保護の対象にしています。
この時代の日本は貧しい家庭がとても多く、人の命が人の都合によって捨てられたり断たれたりしていました。
つまり、この法令には「福祉政策」の側面もあったのです。
後ほど説明しますが、学問や文化を大切にする「文治政治(ぶんちせいじ)」を目指していた綱吉は、「生命の尊重」という道徳概念を人々に持ってもらおうとしていたのかもしれません。
②現代の動物愛護法!犬小屋には約10万頭以上を収容
実際には人間を含む生き物全般に関して出されていた「生類憐れみの令」ですが、「犬を人より大事にした法」「人よりお犬様」というイメージが強いかもしれません。
実際、犬に関する条文はたくさん出されていました。たとえば以下のようなものです。
江戸の町には野良犬がたくさんいました。人間を噛んだり、捨て子を食べてしまう犬もいたのです。
しかし、生類憐れみの令があるため、人間に危害を加えるからといってその犬たちを殺すことはできません。
そこで幕府は、人間に危害を加えないようにと、野良犬を収容することにしました。収容することで、江戸を安全な町にしようとしたのです。
「犬を大事にしすぎた法律」というイメージがある「生類憐れみの令」ですが、犬を収容したのは、人々の安全のためでもあったのですね。
ところが、いざ犬を収容してみると、その数なんと10万頭以上。収容するだけでなく、死なないように餌を与えなければなりません。毎日6,000人が、餌やりや収容のために働いていたといいます。
犬を収容する施設は「御囲(おかこい)」「犬小屋」と呼ばれ、中野、四谷、大久保などにありました。特に中野周辺にあった施設は、16万坪、東京ドーム20個分の面積があったそうです。
③蚊もNG?次第に内容がエスカレート…
文頭にもお伝えしたように、「生類憐れみの令」は、20数年もの間にさまざまな条文として発令され続けました。
動物に関するものも、最初の頃は「犬猫をつなぐ必要はない」「病気の牛馬を捨ててはいけない」などの、ゆるい内容でした。
しかし、次第に禁止事項が増え、次のような法令もあったのです。
捨て子や障害者、病人を守ろうとはじまった「生類憐れみの令」も動物保護の面が強くなり、次第にエスカレートしていきます。
ついには、ハエや蚊、ノミに関してまでもお触れが出るようになりました。
いくらなんでも蚊を殺して罰を受けるの?と思いますよね。
しかし、伊東淡路守基祐という武士は、蚊を殺して流罪(辺境地や島に送られる罰)となったという記録があります。
真偽のほどは定かではありませんが、このように現実とかけ離れた法令が次々と発令されました。
本来人々のためになるはずだった「生類憐れみの令」が人々を苦しめる結果となってしまったようです。
このことから、天下の悪法というイメージが定着しているのでしょう。
生類憐れみの令はいつ発令された?年号を語呂合わせで覚えよう!
生類憐れみの令は1つの法律ではないため、語呂合わせの年号も複数あります。
ここでは、最近の解釈で生類憐れみの令のはじまりとされる1685年と、法令の原文を紹介した1687年の語呂合わせを紹介しましょう!
生類憐れみの令によって、犬だけでなくあらゆる生き物に気を使って生活しなければならなくなりました。人々にとっては苦労の絶えないことだったのです。
生類憐れみの令は、100を超えるさまざまな法令をまとめた呼び名です。
増えすぎてしまった野良犬対策として、町から犬を収容する必要がありました。
生類憐れみの令では野良犬は収容しなければなりませんでしたね。
将軍から「大事にしろ」と言われた犬は、江戸っ子よりも華やいで見えたようです。
貧乏でお腹が空いていても、大切な犬のご飯を食べてはいけなかったのですね。
生類憐れみの令を発令した徳川綱吉ってどんな人物?
さて、生類憐れみの令を発令した徳川綱吉は、どのような人物だったのでしょうか。法令が生まれた経緯と併せて紐解いていきましょう。
徳川綱吉の人生年表
まずは、徳川綱吉の63年の生涯を振り返ってみましょう。
1646年 3代将軍家光の四男として生まれる
1651年 家光死去。長男家綱が4代将軍となる
1680年 家綱死去。家綱に跡継ぎがいなかったことから、綱吉が5代将軍となる。文治政治推進。
1683年 長男徳松逝去
1684年 綱吉の側近だった大老堀田正俊が殺される
1687年 殺生を禁止する法令を制定(生類憐れみの令)
1691年 湯島聖堂を建立
1709年 綱吉逝去
後継ぎに恵まれない徳川綱吉が信じていた儒学
綱吉と儒学は、切っても切れない関係にあります。
儒学とは、中国古代の儒教思想を基本とした学問のこと。江戸時代より昔、日本で儒学(儒教)というのは仏教においてのたしなみ(教養)といった位置づけでした。
その儒学が、江戸時代に入ってからは学問として必要とされていきます。
綱吉自身も儒学を尊び、軍事力や武力で押さえつける世の中ではなく、徳を重んじ学問で世の中を治める政治「文治政治(ぶんちせいじ)」を目指すようになりました。
そんな綱吉は、息子の徳松(とくまつ)が5歳で病死し、その後も跡継ぎに恵まれませんでした。
儒学の「親を大事にせよ」という教えを重んじた綱吉は、母親から勧められた僧侶・隆光(りゅうこう)に、こう助言され、その言葉を信じるのです。
「あなたは前世で動物を殺してしまったために、子どもに恵まれないのだ。跡継ぎが欲しいのなら、これからは動物を大事にしなさい。」
これが「生類憐れみの令」発令につながるエピソードとされています。
しかし、徳川綱吉の時代に隆光は存在していなかったともいわれているため、隆光による助言の事実について、真偽のほどは不明。
一方で、実際のお触れでは、発令の理由をこのように説明しています。
儒学で最大の美徳とされている「仁」(思いやりや慈しみの心)の精神からも、綱吉は大切な人を失う悲しみを、人々に味わってほしくない、と考えていたようです。
また、学問によって世の中を治めたい、道徳通念を広めて社会をよりよくしたい、という想いもあったのでしょう。
徳川綱吉の死後すぐに、さまざまな「生類憐れみの令」が廃止
1709年1月10日、綱吉は63歳でこの世を去ります。綱吉は生前、6代将軍となる家宣(いえのぶ)に生類憐れみの令を残すよう伝えました。
しかし、綱吉の死後すぐに以下のお触れが出されています。
そして「御囲(=犬小屋)」も早々に解体され、犬やハエ、蚊に至るまで殺生を禁止した極端な法令は、ほとんどが廃止されました。
しかし、生類憐れみの令の本来の目的でもあった「捨て子を禁止する法令」など、残された法令もあります。
綱吉が主張した「命あるものは殺してはいけない」「一緒に生きよう!」という精神が残ったという意味では、「生類憐れみの令」は結果的には成功した法令だったといえるでしょう。
まとめ
今回は、生類憐れみの令について解説しました。ポイントをまとめると…
江戸時代が始まる1603年までの何百年もの間、戦いの歴史のなかにあった日本では、弱いものが死んでしまうことに抵抗感がありませんでした。
そんな世の中の風潮に対し、「命あるものは殺してはいけない」という綱吉の強い思いが「生類憐れみの令」となったのです。
これは当時の日本人にとって、大きな意識転換だったことでしょう。
この記事で、生類憐れみの令が現代の動物愛護法に似た法令であることが理解できたと思います。
また、生類憐れみの令のおかげで、江戸時代が「一緒に生きよう」という社会になりました。この点を理解することも大切なので、覚えておきましょう!