あなたは、中学で習う「墾田永年私財法」について理解していますか?「名前しか知らない」「よくわかっていない」という方も少なからずいることでしょう。
華々しい合戦などと比べると地味な内容かもしれませんが、実はかなり重要な出来事なのです。
今回は、そんな墾田永年私財法について解説!誰がどんな内容を発令したのか、イラストでわかりやすくお伝えしていきます。
ちなみに、この記事では読みにくい歴史用語が出てきます。覚えにくい用語は、何度も口に出して言ったり、紙に書いたりしているといつの間にか覚えられるので、試してみてくださいね。
この記事を読めば、墾田永年私財法の内容はもちろん、時代背景や制定後の世の中の変化についても理解できますよ!
墾田永年私財法とは?読み方は「こんでんえいねんしざいほう」
墾田永年私財法とは、自分で開墾(山林や原野を切り開いて耕地にすること)した土地は、永遠に自分のものにしてよいという法律のことです。
ただ、墾田永年私財法って、呪文のような言葉で覚えにくいですよね?
次のように意味ごとに単語をバラバラにしてみると、覚えやすいですよ。
墾田永年私財法は、いつ・誰が制定した?
まずは、墾田永年私財法そのものについて説明しましょう。墾田永年私財法は、いつ、誰が制定したのでしょうか。
743年に聖武天皇が墾田永年私財法を制定
墾田永年私財法は、743年に聖武天皇(しょうむてんのう)が制定しました。
743年といえば、710年にはじまった奈良時代にあたります。奈良時代は、「大宝律令」(たいほうりつりょう)※という法律で天皇に権力を集中させる中央集権国家を目指した時代でした。
とくに聖武天皇は、当時、東アジア最先端の国家だった唐(中国)の文化と政治制度を積極的に導入。安定した国造りに一生懸命な天皇だったのです。
※中国の律令を手本として701年に完成した、日本で初めて刑法・行政法・民法が揃った律令
墾田永年私財法ができるまで
「自分で耕したら自分ものは当たり前じゃない?」「それまではだめだったの?」と思う方もいることでしょう。
しかし、この法律ができるまでは、そうではありませんでした。
大化の改新から奈良時代、平安時代へと移っていくこの時代は、日本が国家の形をつくり、うまく運営してくためにさまざまな制度を試していました。
日本という国家を上手に運営するために重要となる、税金のとり方や国民のまとめ方について、いろいろな法律ができていきます。
墾田永年私財法もそんな時代のなかで生まれた、上手に税金を取るための法律のひとつでした。
土地を割り当てる制度「班田収授法」がはじまり
645年の大化の改新によって、それまでの力のある豪族たちが土地や人民を支配してきた私地私民制(しちしみんせい)が廃止され、「土地も人民も天皇のもの」となりました。
これを「公地公民制(こうちこうみんせい)」といいます。
この公地公民制を原則とし、国が持っている田地を6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)として与えることが規定されました。
この口分田は、与えられた人が亡くなるまで使うことができ、亡くなった後は国に返すという決まり。
このように、土地を割り当てる制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)といいます。これは唐の土地制度「均田制」を取り入れたものでした。
723年に「三世一身法」を施行するも失敗
この時代は、中国や朝鮮半島から鉄製の鍬が導入されたり、池をつくったりしたほか、治水をおこなう技術が進歩したことにより農作物も増えていました。その結果、人口は増加傾向にありました。
これに伴い、朝廷は自ら新しい口分田を開発するも、次第に人口の増加に間に合わなくなっていきました。
そこで、朝廷は「人民が自ら土地を開墾してもよい。ただし、その土地が使えるのは3世代だけ」という新しい法律をつくり、人民自らが自分の口分田をつくることを認めます。これが三世一身法(さんぜいっしんほう)です。
しかし、化学肥料やトラクターのような道具もなく、作物が育つような農場をつくるのは大変な作業。
この時代の農業技術では、3世代といえどもしっかりと収穫できる農地をつくるには時間が短すぎたのです。
そのため、開墾をはじめたものの、途中で投げ出してしまう人や頑張る意欲が削がれてしまう人が多くいました。
そこで朝廷は法律を改め、三世一身法にかわる法令として墾田永年私財法を発布するのです。
開墾には、下記の条件がありました。
これは、朝廷が新規で開墾された土地を把握することで確実に税を徴収できるようにするために設定したものでした。
墾田永年私財法の影響で変わったこと
墾田永年私財法ができるまでの時代背景を解説しました。
朝廷もさまざまな工夫をして、どうにか安定した国造りをしようと努力している様子が理解できたと思います。
ここからは、墾田永年私財法が施行された影響で世の中がどう変わっていったのかを見てみましょう。
日本中に貧富の差が拡大!「荘園」が発生し公地公民制は崩壊
墾田永年私財法は短期的には成功しました。財力のある大貴族や大寺院などが競って開墾を進め、税収が増えたからです。
開墾した土地には現地事務所を置き、その事務所を「荘」と呼びました。荘が管理する田畑を「園」と呼び、あわせて「荘園」と呼ばれるようになりました。
財力や政治力を持った貴族や大富豪、寺社などの権力者は積極的に土地の囲い込みをはじめ、大規模な荘園をつくり上げていくのです。
墾田永年私財法で私有地を増やせたのは権力者ばかり。墾田永年私財法は、結果的に貧富の差を拡大させてしまいました。
大宝律令の下にはじまった公地公民制は、影響力の大きい権力者が出てきたことで機能しなくなっていったのです。
「不輸の権」により、やがて荘園は貴族のものに
平安時代まで進むと、政治の実権を貴族が握るようになっていきました。
すると貴族は、「荘園領主(貴族たち)が所有する荘園は税を納めなくてもよい」とする、自分たちに有利な法律をつくります。これを「不輸の権(ふゆのけん)」といいます。
この法律により、土地を開墾していた豪族(地方に住む有力者)たちの間では「貴族の名義を借りて土地を開墾し、朝廷に税金を払わない」という傾向が強まっていきました。
豪族は名義を借りる代わりに貴族へお金を払い、そして貴族は自分名義の荘園がどんどん増え、何もしなくても儲かるようになってくのです。
荘園を守る役割をきっかけに「武士」という階級が誕生
墾田永年私財法で「自分で耕してもいい」といわれても、やはり農耕に適した日当たりのよい肥沃な土地は限られてきます。
とくに貴族や豪族にとっては、土地の奪い合いとなることもしばしばありました。
すると、腕力に自信がある農民たちが貴族や豪族と契約し、荘園を警備する仕事をはじめます。こうして武士が誕生するのです。
武士にとって大切なことは、戦闘能力。高い戦闘能力を持つために武士たちは集まり、グループをつくりました。
グループをうまく取りまとめるリーダーとして、後の「源氏」や「平家」が台頭してくることになるのです。
墾田永年私財法の年号の覚え方!743年の語呂合わせを紹介
上記では、墾田永年私財法ができるまでと、できたあとの流れを紹介しました。
それでは最後に、墾田永年私財法の年号の覚え方を紹介します。3つの語呂合わせのなかから、自分が覚えやすいものを選んでくださいね!
墾田永年私財法の語呂合わせ①
先述しましたが、723年の三世一身法には「3世代」という制限があったのに対し、墾田永年私財法は「世代の制限が撤廃された」という意味の覚え方。
これは、「制限」の意味をよく理解していないと少し覚えにくいかもしれません。
墾田永年私財法の語呂合わせ②
「自分で開墾した土地は、自分のものになる」と聞いたとき 、人民の多くは「資産が潤うぞ!」と喜んだことでしょう。しかし、現実にはさまざまな影響があったようです。
墾田永年私財法の語呂合わせ③
班田収授法から三世一身法と、だんだん自分の土地にできる期間が伸びていったことで、「墾田永年私財法はいいね!」と思った人民は、きっと少なくなかったはずです。
まとめ
今回は墾田永年私財法について紹介しました。まとめると…
「安定して税収を増やしたい」という目的からはじまった墾田永年私財法。しかし、時代が進むにつれて大規模荘園ができたり、貴族が力を持ったり、武士が生まれるきっかけになったりと、思わぬ展開を生んだことが理解できたと思います。
歴史の学習を楽しむコツは、年号や単語を丸暗記するのではなく物語として学習すること。歴史の出来事には、それが発生するまでの背景があり、発生したあとの影響があります。
年号を語呂合わせで覚えたり、「この時代は以前からこんなことがあったから、この出来事が起きた。その影響でこんな風に変わった」という物語として捉えたりすると勉強が楽しくなりますよ!