現在ジェイテクトSTINGSで活躍中の柳田将洋さんは、Vリーグ随一の人気を誇るプロのバレーボール選手。
20代前半から日本バレーボールの未来を担う「NEXT4」として注目を浴び、“ベテラン”の域に達しつつある30歳となった今もオールスターゲームでファン投票1位を獲得するなど、日本のバレーボール人気を牽引し続けています。
そんな柳田選手に、トップアスリートとしての下地をつくったという、高校時代の監督の教えや両親とのエピソードを語っていただきました。
さらに日本代表の主将にまで上り詰めながらも代表入りがかなわなかった、東京オリンピックへの想いも。しかしその経験から得たものの中に、柳田選手が“プロ”として輝き続ける所以がありました。
自分で考えた目標を達成したことでプレーの幅が広がった
―柳田選手はご両親の影響でバレーボールを始めたそうですね?
柳田将洋(以下、柳田):トップレベルではありませんが、両親ともクラブチームなどでプレーをしていました。僕も幼稚園のときから母のママさんバレーについて行っていたので、物心つくまえからバレーボールが隣にあり、自然な流れで始めたと記憶しています。
小学校高学年になると週5日で練習をしていて今思えば結構ハードでしたね。でも、バレーボールは団体競技なので友だちと一緒に楽しんでいる感覚で楽しかったです。
―将来の夢も“バレーボール選手”でしたか?
柳田:それが、まったくなくて。それこそ真剣にバレーボール選手としてご飯を食べていこうと思ったのは、2017年にプロに転向する前あたりでした。
バレーボールは大好きだけど、「じゃあ、それで生活していこうか」となると話は別。「いい大学に入っていい会社に就職したい」そんなふうに思っていたので、「バレーボールと将来のためになる勉強のどちらも並行してできる場所」というところで、高校卒業後は慶應義塾大学に進学しました。
―でも、春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)で大注目を浴びてアンダーカテゴリーにも召集されていましたよね。そのなかで、バレーボールでは強豪校ではない大学へ進学。その選択に周囲はやきもきされたのでは?
柳田:本音はわかりませんが、両親も高校の監督も僕の考えを尊重してくれました。
監督は「ここの大学がいいのでは?」などまったく仰らなかったです。「自分の耳で聞いて自分で判断しなさい」と、僕に興味を示してくださった大学すべてとの面談の場を用意してくださりました。
そもそも高校の監督は「自分で考えるバレー」が指導方針の方だったので、僕も指示を受けて動くのではなく、自分で目標を立ててそこまでにどうやって階段を上がっていくか逆算して考えながら練習に取り組んでいました。
失敗を重ねながらも自分で考えて達成できたこと成功したことが増えると、もっと自分で“ああしたい、こうしたい”というのが湧いてきて、その分プレーの幅も広がっていきましたね。
―ご両親はいかがでしたか?
柳田:両親も「あなたが考えて決めたことなんだから」と言っていつも背中を押してくれていました。両親には昔から否定的なことを言われた記憶がないです。選択の善し悪しではなく、「なぜそう思うのか」についてよく聞かれていましたね。
そういうこともあって自分が何かしたいときは、よく考える習慣が身についていると思います。両親も内心言いたいことがあったと思いますが、堪えていたんでしょうね(笑)
でも、否定的なことを言われなかったおかげで、自分の選択にはいつも自信を持てるようになりましたし、チャレンジや環境などの変化を恐れることはありません。
後々プロ転向や海外リーグに挑戦できたのも、高校の監督の教えや両親とのそのようなやりとりによって“自分で考えて選択する”下地が作られたからだと思います。
努力は当たり前!大切なのは“変化を恐れず挑戦すること”
―大学卒業後はVリーガーとして安定した地位を築いていた最中に、プロに転向されました。当時、プロ契約選手は稀だったかと記憶しています。
柳田:プロ転向の大きな理由は、日本代表として日の丸を背負いながら試合をしていくうちにこのコートに立ち続けたいという気持ちが強くなったことです。
そのためには何が必要か。トップ選手を見ていると誰よりも考えて努力しているのは当たり前で、そのなかでコートに立ち続けるためには変化を恐れず成長し続けることが必要だと思い、プロへ転向をして海外リーグにも挑戦をしました。
―いわゆるアマチュアの選手とプロの選手は何が違うと思いますか?
柳田:“プロ=バレーボールでご飯を食べる”状況は、相手チームに勝つことはもちろん、それ以前に同じチーム内でもポジションは絶対に譲れないということもあり、あらゆる場面において覚悟が違うと僕は思います。
プレーだけでなく、応援してもらえる選手としてファンの方に喜んでいただくためにはどのようにしたらいいか、それこそ観客動員数の増減に至るまであらゆる角度からバレーボールを見つめ直すきっかけになりました。
―プロ転向へ不安はありませんでしたか?
柳田:もちろん不安はありました。「契約が切られたらどうなるんだろう…」と、特にプロ一年目はそんなことがよく頭をよぎっていましたね。
でも、そのような不安要素を踏まえたうえでのチャレンジも怖くはありませんでした。
先ほども言いましたが、大学進学時に監督から言われたように“自分の人生は自分で判断する”ことが大切だと思っていましたし、両親からもチャレンジを踏みとどまらせるようなことを言われたことがなかったので、不安も受け入れていたのだと思います。
「成功のみに価値があるわけではない」ファンの支えに改めて感謝
―ただ、人はチャレンジをするときに成功するか失敗するかの二択にフォーカスしてしまう気がします。
柳田:でも、成功のみに価値があるかと言われたらそんなことはまったくない。失敗によって得られることもたくさんありました。
直近で言えば東京オリンピック日本代表からの落選でしょうか。東京オリンピックまでの道のりを逆算して何年もかけてそこに照準を合わせてきたので、メンバーから外れたことを聞いたときは今まで味わったことのない感情に押しつぶされそうになりました。
でも家族や友人はもちろん、サポーターズクラブのファンの方が温かいメッセージをたくさん寄せてくれて、あの経験によって“自分は一人じゃない”ことを改めて実感することができました。
―特にどのようなメッセージが力になりましたか?
柳田:「無理しないで」とか「バレーボールがしたいと思ったらコートに帰ってきてください」という僕に寄り添ってくれるような言葉ですね。
逆に「早くプレーが見たいです」などと言われていたら、僕だったら「あんなに辛い思いをしたのに、また辛い場所へ戻らなければいけないのか…」と、コートに戻るのに時間がかかってしまったと思うんです。
でも、ファンの皆さんは僕の気持ちに寄り添ってくれて、コートに戻るペースを作ってくださった。バレーボール選手としてだけでなく、一人の人間として見守り応援していただいているようで、本当に幸せだなと……感謝しているとしか言いようがないです。
「人から大切にされた経験が、次に誰かを大切にしたい気持ちに繋がる」
―その経験は今度どのような場面で糧となっていくと思っていますか?
柳田:この先もずっとバレーボールに携わっていきたいと思っているなかで、僕と同じような境遇の選手が出てきたときに、少しでも理解を示せる人間になりたいなと思っています。
境遇とはオリンピックだけの話しではなく、何かに挑戦したりするとき、物事の大小は関係なく本人がどのように感じているかがすごく大事で、例えば中学生が最後の大会に出られなかったというのは、僕がオリンピックに出られなかったときの気持ちと同じ大きさですよね。
また、スポーツかどうかは関係なく、しんどいときは大人や子ども関係なく心を一回休ませてもう一回自分で立ち上がるエネルギーを蓄えることが大切。そういったところも今後何かで繋げて伝えてあげられると僕の経験も活きるのかなと思います。
―お話を聞いていると、柳田選手ご自身の感性ももちろんですが、ご家族や指導者だけでなくファンの方にも恵まれているなと感じます。
柳田:周囲の環境は自分で選べるわけではないので、幸運としか言いようがないです。誰かから大切にしてもらえるっていうことは自分も誰かを大切にできることに繋がっているんじゃないかなと感じています。だから、僕も皆さんにいただいたこの気持ちを誰かに与えられるような、今度は自分自身もそういう存在になっていきたいと思っています。
取材協力:柳田将洋
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