『キングオブコント2022』で準優勝に輝いたお笑いコンビ「コットン」(2021年ラフレクランから改名)。2023年活躍必至のお二人の魅力に迫ります。
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「ミスター慶應」「元アナウンサー」と華やかな経歴をもつ「コットン」の西村真二さん。「衣装予報士」としてその日の気温に合わせた服装をアドバイスするTwitterは幅広い世代から人気を集めています。
そんな西村さん、テレビでも「お笑い以外の“全才能”が集合している」などと語るなど、常に自信のある姿が印象的ですが、それは努力から生まれた“根拠のある自信”であることを明かしてくれました。
努力の原点はオリンピックを目指した小学生時代
―西村さんと言えば“華やかな経歴”という印象です。しかも子どものころからなんでも得意だったそうですね。
西村:そうなんです、僕むちゃくちゃ天才だったんです全ジャンルにおいて。小学校のときから勉強も得意で走れば一番だし、とにかくなんでもできました。
例えば水泳では幼稚園の年中のころから選手育成コースに飛び級で入って小学生の合宿にも参加して数十キロ泳いでました。ジュニアオリンピックっていう全国大会にも小学生のときに出場し、当時のヘッドコーチに両肩を掴まれながら「絶対オリンピック行けるから」って言われ続けていたんですよ。
でも、時代が時代なんで練習はきつかったです(笑)「水を飲むな」「とにかく泳げ」の時代だったので、プールの水飲んでお腹壊したり、疲れて休めば怒られるしで、本当しんどすぎたんですけど、家にメダルが増えていく度に「これがコーチとの絆なんだ」と思って耐えられていましたね。
ただ、小学校高学年くらいのときにそのヘッドコーチが辞めて…そしたら僕のオリンピックを夢見ていた気持ちの糸がぷっつーんと途切れて泳がなくなったんですよ、まったく。そのあとも広島の名門スイミングスクールに移籍したんですけど…3カ月くらいで辞めちゃいました。
―そんな様子を見てご家族も心配したのでは?
西村:お母さんは「あなたが泳ぐ気なかったら全然大丈夫」って、辞めるときはあっさり。ただ、お母さんも僕が必死に泳いでいるのを見るのが「本当に苦しかった」って言っていましたね。息継ぎのタイミングで見える僕の目が死んでたらしいです(笑)
でも、そういうところで育ったお陰で、競争心というか自分を奮い立たせる力なんかはめちゃくちゃ養われたと思います。
その後の勉強に関しても、広島県の進学校・修道高校に進学したのですが、入試のための勉強は部活を引退した後の3カ月、その期間だけきっちりやって合格。大学も浪人中は一日16時間勉強していました。熱中しすぎて夏場貧血で倒れたことも。でも偏差値30、学年最下位から慶應義塾大学に進学しました。
ちなみになんで浪人したかというと、高校卒業したら芸人になる予定だったので高校では1秒も勉強しなかったんです。テストも“名前だけ書いて提出”みたいなやんちゃしてたから(笑)大学進学はお母さんの希望もあってでした。
―それらの経験はどのように蓄積されていますか?
西村:僕、心底「もうダメかも知れない」なんて思ったこと一度もないんです。水泳や大学進学だけでなく、自分で掲げた目標に対して今まで全部達成というか完遂してきた経験が自分のなかのベースとしてあるから。その努力と成果が僕を作り上げていると思います。
だから、芸人になった今も目標を達成するために怠惰な生活は送っていないと一点の曇りもなく言えますね。他人が寝ているときにネタを書いて作業をし、情報も入れまくるし世間のニュースとかも敏感にキャッチして、流行物も全部観る。
ほかの芸人の方はエンタメのジャンルで勝負しているかも知れないですけど、僕は努力のジャンルで勝負している。これでムリならもう辞めようって思えるぐらい日々やっていると思います、努力しないといけない人間なので。本当に天才なのは努力の分野なのかも。
アナウンサー1年目で辞表を書くも芸人への夢が途切れ…
―西村さんはそもそもなぜ芸人を志したのでしょうか。
西村:世界一カッコイイ仕事だと思ったんです、芸人が。小学校の卒業文集にも「ナインティナインになる」って書いていたので。
だから大学では同級生とコンビを組み、卒業後はそいつと吉本に入ろうとしたんです。でもそいつが「一年だけ社会人を経験するのもいいんじゃないか」って…不安だったんでしょうね、今思えば。
僕も「おぎやはぎさんも社会人を経験しているから、それもアリかな」と思ったので普通に就職活動をし、そのなかで拾っていただいたのがアナウンサーでした。
ただ、当時の相方と「一年間」という約束でしたので、勤め始めて一年弱くらいのときに辞表を書き、相方にその電話をしたら「ゴメン、やっぱりできない」って泣きながら言われ、「おい、マジか!」と。
その日の生放送終了後に当時の相方が住む名古屋に新幹線で飛んで行きました。次の日に生放送があったのですぐ帰らなければいけなかったんですけど、その間に説得できないかと…無理でしたね。
―本当になりたかったんですね、お笑い芸人に。
西村:なりたかったですね~。当時の相方が証券会社に就職して、しかも俗にいうエリートコースの赴任地でね。そっちの街道に乗っちゃったかと思って…。
名古屋から広島帰って当時付き合っていた彼女の家で、引くくらい泣きましたね。「お先真っ暗だ…」って。吉本入るって思っていた18歳の夢が23歳まで延びて、更に急にブツっと切れたので、それこそ小学生のときに水泳のヘッドコーチがいなくなったときくらいの衝撃でした。
―なんとなく冷静なイメージがありましたが、熱い性格なんですね。
西村:自分の気持ちにめっちゃ素直です。よく全部の行動に算盤を弾いているとか言われるのですが、気持ち先行ですね。でもどっちもあると思います、冷静と情熱の間です、マジで、金城武。
やりたいことは全部やるし、悔しいときは悔しがるし、テレビの前でもいい顔出来ないし。嘘つけないかもしれないですね。ただ、なかはすごく理詰めで、その目標のためにはいつまでにこれを終わらせるとか、勉強なら英単語を全部覚えるとかはやるんですけどね。
―スポーツ選手気質のようなところがあるように感じます。
西村:そうかも(笑)向いてる向いてないで言ったら、一番向いているのは水泳かも知れないですね。お母さんにも酔っぱらったときに言われるんですよね、ほかはなんにも言わないですけど水泳だけは「水泳続けてれば私今頃メダリストの母親だったのにな」って(笑)
オードリー・若林から学んだ「負けの美学」
―芸人としての活動のなかで大切にしている言葉とかはありますか?
西村:「一番」じゃないですか?うちのお母さんちょっと変わっていて…昔から「一番になりなさい」って僕に言い続けてきたんです。運動会のときも「一番」、水泳のときも「一番」って言われ続けていたから、もうめちゃくちゃ覚えていますね。
―保護者に「一番」って言われるとプレッシャーになってしまいそうですよね。
西村:それがね…まったく感じないです、プレッシャーに。それは「一番をとってこい」の一番でもあるし、「君が一番だよ」の一番でもあったからなんでしょうね。実際に一番とってきていたし。本当に負けたこと少ないんですよ、芸人以外で。
だから今でも明確に一番を取れるものが僕は大好きなんですよ、対戦や賞レースが大好きです。
ただ、その一方で芸人になってからは、勝ち続ける一番から負けることで一番になれることも学びました。今までの人生と真逆ですよね「負けた瞬間に輝く」を常に念頭に置いています。
―西村さんにとっての負けた瞬間とは?
西村:自分でいうのもなんですが僕って、俗にいう“勝ってきた人間”なんですね。慶應出身、ミスター慶應でアナウンサー。だからバラエティで「ミスター慶應のくせに」って言われたら「なんでそんなこと言うんだ!」ってただムカついていたんです、今までの僕は。
でも、その“ムカつきの扉”を開けちゃうとなんの面白味もない…。「それならそっちに乗っかれ!」って“未開の扉”を開けるようになったら、気持ちも楽になったんです。
それを教えてくれたのが『しくじり先生』や、若林さん(オードリー若林正恭)、平子さん(アルコ&ピース平子祐希)。
「お前の持ち前のキャラクターすごくいい、すごくいい」って褒めてくれて、「だからこそみんなに餌を撒いて引っ掛かった瞬間に、『あちゃ~、やっちゃった~』っていう顔をすればいいんだよ」って、これはめちゃくちゃ勉強になった。
バラエティでは今までどおり怒って言い返したらただのケンカに悪口。今は「ミスター慶應なのに全然かっこよくないじゃん」って言われたら「え?かっこいいじゃん」って虚勢を張りつつ、鏡で年老いてダルダルになってる自分を見て「本当だ!」って言っているのが僕のなかで「負けの美学」。
「ミスター慶應まで獲っているのにブサイク扱いされる」っていう負けを覚えた。これが、本当に今の芸人人生の指標になっています。
―新しい自分が見られて、今とても楽しそうですね。
西村:本当にそうです。芸人になって新しい自分を見つけました。これまでの人生は勝つことばかり考えていたところがありますが、今は全部負けることを考えています。
これに気づかせてくださった、若林さん、平子さんには本当に頭が上がらないですね。
取材協力:西村真二(コットン)
コットン公式YouTubeチャンネル:コットンシアター
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