音楽クリエイターとして、またタレントとして活動されているヒャダインさん。
小学生のころから周囲に心を開くことができず、胸に抱え続けていたのは“ここじゃない感”。その違和感の答えを探すかのように懸命に勉強に励み京都大学にも進学しましたが、見つかった“ここ”は勉強ではなく音楽でした。
一見かけ離れた場所にあるように見える双方ですが、猛勉強した日々、抱えていた思い、すべてが“ここ”に繋がっているとヒャダインさんは話します。
「大人楽しいよ」を子どもたちのために体現したい
ーこの数年、子ども向け番組でのご活躍や新聞の連載で子どもの相談に乗られる機会が多く“ヒャダさん”や“ヒャダ兄さん”と親しまれていますね。
ヒャダインさん(以下、ヒャダイン):ありがとうございます。そうですね、例えば『ポケんち』(テレビ東京『ポケモンの家あつまる?』)では、中川翔子さんと僕は運動神経が悪かったりどんくさかったりすることを、「それでも大人楽しいよ」って子どもたちに伝えるために出ている部分があります。
そういったコンプレックスさえも武器になるし、既存の価値観だったら「運動神経悪い人=ダサい」とか「大人になってもポケモン好きとか変」って思うかもしれないですけど。そんなものはありません。“ダイバーシティ”や“多様性”を子どもたちに向けて体現したいなとは思いますね。
ーそれは、ご自身のどのような経験が基になっているのでしょうか。
ヒャダイン:僕は小さなころからずっと“ここじゃない感”をもっていました。
小学生のころは同級生に合わせて言葉を選んで話している感覚があり、それに対して子どもながら制約のようなものを感じ、クラスメートに心を開くことができませんでした。
それで「自分に合った学力の学校へ行けば解決できるかも知れない」と、中学受験をして私立の進学校・大阪星光学院(大阪星光学院中学・高等学校)に進学したんです。
中学入学当初は“言葉を選ばなくてもいい楽さ”というのはすごくありましたね。「めちゃくちゃ楽だー!」っていう気持ちで、まるで高速道路に乗っているような感じでした。
でも、そこでも周囲に心を開くことができませんでした。
ー“言葉”だけの問題ではなかったんですね。
ヒャダイン:クラスの成績は42人中12、3番目とかだったので、偏差値的にはここの学校だよね、という感じはするのですが、感覚的に“ここじゃない感”があって、ずっと居心地が悪かったんです。
たとえば、当時僕はピチカートファイブや渋谷系がものすごく好きで、とてもよく聴いていたんですけどその趣味が合うクラスメートもいなかったですし…。
そもそも「僕は誰からも理解されないんだろうな」という前提で生きていたので、そこらへんは何も期待しなかったんですけど、期待しなさ過ぎて人に頼ったり、もたれたりすることが無かったのかもしれないですね。
今思えば、本質的にお友だちをつくる術が欠落していたんです。
「作曲家しかない!」9.11をきっかけに人生を見つめなおす
ーそれは京都大学時代も変わらなかったのでしょうか?
ヒャダイン:進学校だったので、自然な流れで京大を受験しましたが、やりたいことは何もなかったので一番ふわっとしている総合人間学部に入りました。ここなら何か見つかるかなと。
その一方で周囲はやる気のある学生ばかり。そこで初めて“自分よりも頭の良い集団が高次元の話をしていてついていけなくなる”っていう瞬間を味わいました。
僕も小学生のとき、そういう会話をしたくて中学受験をしたのですが、京大はそれのグレードアップ版。
僕は逆に下の方の身分になり、「うわっ、これ全然わかんない…」と思ったら大学から足が遠のき、2年生の時に大学へ行かなくなりアルバイトに没頭していました。
―そこから、どうのようにして音楽までたどり着いたのですか?
ヒャダイン:3年生の夏ごろ、久し振りに大学へ行ったら、周囲の話題は就職活動一色。就活に出遅れてしまったことを知り「もう人生終わったなー」と本気で思ったんです。今思えばそんなのあり得ないですよね(笑)でも、当時の僕は「命にかかわる失敗をしてしまった」ぐらいに思っていました。
「卒業したらフリーターになるしかない」と思い込んでいたので、「それなら、学生時代にしかできないことをしよう…そうだ海外旅行だ!」とバイトで貯めに貯めたお金で、1人でニューヨークに長期滞在し、大好きだったミュージカルを毎日見ました。そして帰国前日に起きたのが同時多発テロ。それが人生を見つめ直すきっかけとなりました。
死を隣り合わせしたら人間って色々考えるんですね。 今回の新型コロナや大震災などもそうですが、 「人生っていきなりこんなことが起きるんだ…」と。
僕もこの9.11のときに、帰国できるまでの1週間の間、自分の人生を振り返りながらとにかくいろいろ考え、「こういうことが突然訪れるのなら、好きなことをして名を馳せたい!」と思い、真っ先に思い浮かんだのが“音楽”でした。
3歳からピアノを始めて以来、音楽はずっと続けていたんです。そこで目指した職業が“作曲家”。
今思えば、他にも音楽にかかわる方法ってディレクターになるとか、エンジニアとか…いっぱいあるのですが、当時は視野が狭かったので「音楽に関わる仕事といえば作曲家だ!」と思って帰国後すぐに作曲の勉強をし始めました。ようやく何かが見つかったんですね。
週に1回作曲スクールに通い、目的が見つかってからは大学にも真面目に通うように。1年間通ったのちに、その作曲スクールの先生に「君、面白いから東京に出たら?」と言われ、迷わず上京を決めました。
ーご両親は“作曲家”になると聞いてどのような反応でしたか?
ヒャダイン:両親には大学4年生の秋ごろに話しました。
両親は僕が京大に行ったことなどを人に言うタイプではありません。自分たちの手柄ではなく子どもが頑張ったからだと自分たちとは切り離していました。「子どもが東大とか京大に行ったのは自分の手柄だ!」と思っているご両親だとその後の進路などにも関与してくるかと思うのですが、僕の両親はそうではなかったので、僕の進路にあまり興味がなかったようでした。
でもさすがに、そんな時期まで卒業後の進路について僕が何も言わないので、両親と僕でたこ焼きパーティーが開かれました、「どうするつもりなん」って(笑)
「東京に行って音楽やろっかなーと思ってる」みたいなことを言ったら、「ま、そんなことやろとは思ったわ、がんばり」って言われて終わりでしたね。
父は石垣島の農家出身で、自分で勉強してカメラの学校に行って写真家として一軒家まで建てて子ども二人を私立の学校にまで入れたぐらい頑張った人です。
だから芸術で生活をしていくということにある程度理解はあったんでしょうね。そこからは協力的で、上京する時も荷物を載せて車で送ってくれました。さすがに母は毎回ちょっと涙ぐんでいましたけどね。
“みんなと違う”それがいい!あなたの“個性”を絶対に曲げないで
―そのお仕事で素晴らしい作品を生み出し続けていますが、今は“ここじゃない感”はなくなりましたか?
ヒャダイン:そうですね、お友だちは圧倒的に増えました。友だちと一緒にいると楽しいですね(笑)大人になったら趣味の合う人や、感覚が似ていたりとか価値観が似ていたりする人と出会えて、一緒に過ごしたり旅行したり飲みに行ったりできて、「これってすごく楽しいんだ」ということにやっと気付きました。
―今のお仕事では勉強した日々や悩んだ日々はどのように生かされていますか。
ヒャダイン:どのような経験もすべて生かされています。もしかしたらもっと経験していたらもっとできたのかも、と思うほど。すべてのことは糧になるなって。糧にならなかったことは一つもないですね。
友だちが少なかったっていうことがあったからこそ、友だちが少ない人たちの孤独とかに寄り添えるような歌詞も書けましたし。完全に寄り添えているかどうかは分からないですが、でも近づける曲も書けました。すべてトライ&エラーで直していったものが今の仕事につながっていると思いますね。
ー勉強した日々と音楽は遠いところにあるようで、すべて繋がっているんですね。ご自身の経験を通して子どもに何を伝えたいですか?
ヒャダイン:「みんなと同じじゃないといけない」とか、“同調圧力”みたいなものを子どもたちは感じやすいと思います。特に現代はSNSなどの発達で、目立つと仲間外れにされるんじゃないか…と自分を出すことに不安を感じるような場面が多いと思います。
でも、“あなたの個性”っていうのはぜったいに曲げちゃいけないし、守るべきです。みんなと違っていてもそれがいい。みんなと違うことが苦しくても、苦しさと逃げずに向き合ったら何かしらの答えが必ず出ます。
僕もそうでした。ずっと「ここじゃない」という気持ちを抱えそれを自分の中で熟成してきた人生でしたが、今は“ここ”にいます。 辛くてもぜひ向き合って自分の個性を磨いていって欲しいですね。あなたを否定せずに。
取材協力:ヒャダイン