日本史の授業では教えてもらえない、挑戦する人のための名言・迷言ベスト5

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家族や友だち、学校の先生、タレントやスポーツ選手らの言葉を聞いて、勇気づけられたり、心が軽くなった経験がある人も多いのではないでしょうか。

偉業を果たした歴史上の人物にも、心に響く名言がたくさんあります。しかし、学校の授業ではあまり教わらないかもしれません。

今回は偉人研究家・名言収集家の真山知幸さんに、「挑戦する人のための名言・迷言」を選んでいただきました。

  1. 【はじめに】 名言には生きるヒントがつまっている
    1. 挑戦する偉人も愚痴だらけだった?
  2. 【迷言5位】「会社にいきたくない」石川啄木の葛藤
  3. 【名言5位】独立を後押ししてくれた岡本太郎の言葉
  4. 【迷言4位】リベンジを果たした信長のちょっと怖い一文
  5. 【名言4位】「順番待ちをするの?」若い人に問う寺山修司
  6. 【迷言3位】絶望がなければ「源氏物語」は生まれなかった?
  7. 【名言3位】「『人生に絶望する』のもまた才能」と小林秀雄は言った
  8. 【迷言2位】裸で来客対応、熱中すると周りが見えなくなった南方熊楠
  9. 【名言2位】マイペースに夢を追った坂本龍馬
  10. 【迷言1位】「名言」となり歴史に刻まれた棟方志功の「迷言」
  11. 【名言1位】人生の最期まで挑戦をやめなかった正岡子規
真山 知幸
この記事を執筆した執筆者
真山 知幸

テラコヤプラス by Ameba 執筆者

著述家、偉人研究家。兵庫県生まれ。同志社大学法学部を卒業後に上京。業界誌の編集長を経て、2020年に40歳でフリーに。偉人や名言、歴史などをテーマに執筆活動をおこなっている。著作『ざんねんな偉人伝』シリーズは20万部突破。『君の歳にあの偉人は何を語ったか』など著作は40冊以上に上る。集大成となる『偉人名言迷言事典』(笠間書院)では、100人の偉人たちの名言と迷言を収載した。2021年11月に『泣ける日本史』(文響社)を発刊予定。

【はじめに】 名言には生きるヒントがつまっている

はじめまして。偉人研究家・名言収集家の真山知幸といいます。歴史上の偉人の名言を収集し始めて約20年になります。

 「偉人」とは何か偉業を成し遂げた人物のこと。偉人たちの功績は日本史などの授業で教わりますが、彼ら・彼女らが残した言葉は授業で教わることが少なく、知らない人も多いのではないでしょうか。

ですが、偉人たちの名言には、壁を乗り越えるヒントがつまっています

挑戦する偉人も愚痴だらけだった?

「偉人になりたい」とまでは思わないまでも、「一度きりの人生、自分らしく生きたい」と願う人は多いことでしょう。

自分らしく生きるために大切なこと。それは「挑戦する」ことだと思います。

ですが、このコロナ禍の閉塞的な状況では新しいことに挑戦しづらいですよね。そして、いつの時代も夢や目標に向かっていると必ず壁にぶつかります。

そこで、この記事では、挑戦する心を養うための、心に響く偉人の「名言」ベスト5を紹介します。

ただ、そうはいっても、がんばれないときだってあります。私もそうです。

そこで「名言」だけではなく、偉人たちのありのままの素顔や人間らしさが垣間見える「迷言」ベスト5もあわせてご紹介したいと思います。

意外と人生の愚痴が多いんですよね、偉人たちって…。

【迷言5位】「会社にいきたくない」石川啄木の葛藤

明治を代表する浪漫派歌人・詩人の石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886~1912年)は、詩作だけではとても生活できずに、会社勤めをしていました。

しかし、それが相当嫌だったらしく、朝から布団のなかで、こう葛藤しています。

《迷言5位》
社に行こうか、行くまいかという、たった一つの問題をもてあました。
行こうか? 行きたくない。
行くまいか? いや、いや、それでは悪い。

迷言5位、石川啄木

そんなこと言っているうちに、どんどん時間が…。

これだけ悩むには訳があります。この時点で、啄木はすでに5日も仮病で会社を休んでいたのです。いやいや、だったらなおさら早く会社に行かないと!

でも、向いていない仕事というものは、想像以上につらいもの

啄木は、歌集『一握の砂(いちあくのすな)』を発表し、歌人としての道を模索することになります。啄木はこんな歌も残しています。

「はたらけどはたらけど なほわがくらし 楽にならざり」(働いても働いても私の生活は楽にならない)

嘆くほど熱心に働いていないような気もしますが…。どうも、啄木は会社員に向いていなかったようですね。

【名言5位】独立を後押ししてくれた岡本太郎の言葉

実は私も40歳を機に、コロナ禍の真っただ中で、フリーランスになることを決意しました。

その後押しをもらったのが、岡本太郎(おかもと・たろう、1911~1996年)の言葉です。

岡本太郎といえば、「太陽の塔」をプロデュースしたことで知られる天才芸術家です。

「芸術は爆発だ!」というぶっ飛んだフレーズでも知られていますが、この名言もすごい発想だなと心が震えました。

《名言5位》
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。
本当はそっちに進みたいんだ。
危険だから生きる意味があるんだ。

名言5位、岡本太郎

本当はそこに「行きたい!」。だからこそ、それを押さえつけるように「危険だ!」という気持ちが生まれるのだと、岡本太郎は言っています。

確かに、私も会社員のときに「この時代に会社を辞めるなんて」「正社員で働いているだけ恵まれている」と自分に言い聞かせていました。

そうすることで「独立したい」という挑戦心に対して「危険だ!」とふたをしていたんですね。

【迷言4位】リベンジを果たした信長のちょっと怖い一文

挑戦を決意すると、目の前に立ちはだかる、いくつもの苦難に立ち向かっていくことになります。

もしかしたら、夢に向かう途中で、どうしてもかなわないライバルが現れるかもしれません

天下統一を目指した尾張の戦国武将といえば、織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582年)ですが、本願寺の門徒たちによる、一向一揆には、ずいぶんと苦しめられました。

なにしろ、本願寺は強大な経済力と軍事力を持っていましたからね。信長は二度も敗北を喫してしまいます。

それでも1574年、三度目の正直で一向一揆を攻略し、本願寺門徒を討伐することに成功。京都所司代の村井貞勝(むらい・さだかつ、生年不詳~1582年)への手紙で、信長はこう喜んでいます。

《迷言4位》
たくさんの首を斬り、憂さを晴らしたぞ

迷言4位、織田信長

ちょっと怖いですね…。

このとき信長はちょうど41歳で私と同じ年です。実力をつけて勝負に出るには、40歳前後がちょうどよい年齢といえそうです。

【名言4位】「順番待ちをするの?」若い人に問う寺山修司

でも、たとえどれだけ年が若かろうが、「まだまだ自分は力不足だ」とひるむ必要はありません。明治維新を成し遂げた志士たちの多くは、20~30代ですからね。

年齢の若さから挑戦に気が引けてしまう若い人たちには、寺山修司(てらやま・しゅうじ、1935~1983年)の言葉を贈りたいと思います。

寺山修司は劇作家、詩人、作家、映画監督などマルチに活躍しました。35歳のときに、こんなことを言っています。

《名言4位》
結局、経験の重みを原点にすると老人だけが世界について語る資格を持つ。
ぼくらは地球のふちに腰かけて順番を待つしかない。
それでは村落社会の発想を出ないんだ。

名言4位、寺山修司

もし、経験がないと言ってはいけない・やってはいけないのだとすると、お年寄りしか発言できず、自分たちは何も言えない・何もできないことになりませんか。

そんな順番待ちをするんですか…。と寺山の言葉は私たちに問いかけているようです。

さすが、本業を尋ねられると「職業は寺山修司です」と答えていた寺山だけあって、堂々としていますね。

臆さずに、自分を表現して、自分の考えを発信しましょう。今の年齢の自分でしかできないことが、きっとありますからね。

【迷言3位】絶望がなければ「源氏物語」は生まれなかった?

それでも人生には不安がつきものです。

平安時代中期に作家や歌人として活躍した紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)もそうでした。

紫式部は、山城守の藤原宣孝(ふじわらののぶたか、生年不詳~1001年)と結婚して一女を生み、これからというときに、夫に先立たれてしまいます。

一条天皇(いちじょうてんのう、980~1011年)の中宮彰子(しょうし/あきこ、988~1074年)に出仕することになりますが、また不幸がふりかかるのではないかと、将来をこう案じています。

《迷言3位》
心に思うのは「いったいこれからどうなってしまうのだろう」と、そのことばかり。
将来の心細さはどうしようもなかった。

迷言3位、紫式部

「迷言」としたのは、そんなつらい現実を忘れるために書かれたのが、誰もが知る『源氏物語』だからです。

もし、紫式部が不幸な目に遭わなければ、筆を執ることもなく、世界最古の長編物語は誕生しなかったかもしれません。

【名言3位】「『人生に絶望する』のもまた才能」と小林秀雄は言った

紫式部のように、誰しもが将来のことが不安になるときがあります

文芸評論家の小林秀雄(こばやし・ひでお、1902~1983年)は、モーツァルト(1756~1791年)、ゴッホ(1853~1890年)、本居宣長(もとおり・のりなが、1730~1801年)、西行(さいぎょう、1118~1190年)、源実朝(みなもとのさねとも、1192~1219年)、ドストエフスキー(1821~1881年)など、数多くの人物を批評の俎上に載せたことで知られています。

「知の巨人」とも称される小林は、人生の絶望について、こんなふうに語っています。

《名言3位》
絶望するのも才能がいる

名言3位、小林秀雄

絶望するのは、高い理想を掲げているからこそ。

ときには、そのはるかな道のりに圧倒されて、弱きになることもあるでしょう。それでも、これと思う道をただひたすら進むことが大切です。

【迷言2位】裸で来客対応、熱中すると周りが見えなくなった南方熊楠

和歌山県が生んだ「博物学の巨星」とも呼ばれる、博物学者の南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867~1941年)。熊楠は、まさに自分の道を突き進んだ偉人の一人です。

博覧強記の熊楠は、少年時代から驚異的な記憶力で周囲を驚かせます。それでも優等生ではありませんでした。

学校の勉強には興味がわかず、自分の思うままに、野山を走り回っては、植物や貝類などの標本の採集をしたり、読書や写本をしたりするのに夢中になったからです。

自由に学問を楽しんだ熊楠は、アメリカに留学して独学で細菌の研究をおこないます。

帰国後も、まさに寝食を忘れて研究に没頭し、しばしば家族にこう聞いたそうです。

《迷言2位》
お前たち、わし今朝からめし食ったか?

迷言2位、南方熊楠

「知らないよ!」そう言いたくもなりますが、熊楠の生活スタイルは独特でした。

睡眠時間は4時間で、研究に熱が入り、身体が火照ると衣服は全部脱ぐという奇人ぶり。

家では裸で過ごし、来客があってもそのまま平然と対応して、家族を困らせたとか…。

熊楠ほどでもなくても、熱中すれば周囲が見えなくなるもの。そしてその熱中こそが未来を創ります。周囲を気にせず、自分の道が進みましょう。

【名言2位】マイペースに夢を追った坂本龍馬

幕末の志士として活躍した坂本龍馬(さかもと・りょうま、1835~1867年)は、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の仲を取り持って、倒幕に弾みをつけます。

いわば、龍馬は明治維新をプロデュースした一人と言ってよいでしょう。

26歳で土佐藩を脱藩した龍馬。脱藩後も兄からは「実家を継ぐように」とプレッシャーをかけられますが、何とかかわして、時代の荒波に身を投じます。

いつでもポケットに忍ばせておきたい、こんな言葉を龍馬は残しています。

《名言2位》
世の人はわれをなにとも言わばいえ わがなすことはわれのみぞしる

名言2位、坂本龍馬

世の中の人は私のことを好きなように言えばよい、私が何をなすべきかは私だけが知っている―。

強烈な言葉ですよね。

【迷言1位】「名言」となり歴史に刻まれた棟方志功の「迷言」

板画家の棟方志功(むなかた・しこう、1903~1975年)も、龍馬のような境地に達した偉人の一人です。

「板画」とは聞きなれない言葉ですが、志功は、木版の特徴を生かした自身の作品のことを、版画ではなく「板画」と呼びました。

学生時代、知人の画家の家でゴッホの絵「ひまわり」を見ると、棟方は大きな衝撃を受けます。棟方は口癖のように、こう言うようになりました。

《迷言1位》
わだばゴッホになる!

迷言1位、棟方志功

私はゴッホになる―。

人生の目標ができた瞬間ですが、誰も本気にはしませんでした。

なにしろ、棟方は作品が独創的過ぎて、教師がつける成績もよくありませんでした。そんな劣等生がこんなことを言い出したのだから、周囲からすれば「迷言」以外の何物でもないですよね。

それでも志功は「ゴッホになる」という目標にひた走るべく、21歳で上京します。

「帝展(※「帝国美術院展覧会」の略。現在の「日展」)に入選するまで青森に帰らない」という誓いまで立てて自分を追い込みますが、初挑戦の結果は落選してしまいます。

作品が入選して、棟方の努力が報われたのは、実に5回目の挑戦のときでした。

独自の「板画」の世界へと没頭した棟方は、1万点以上の作品を残します。

現代美術の国際美術展覧会「ヴェネチア・ビエンナーレ」に出品。日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞するという快挙を成し遂げました。

「世界のムナカタ」として活躍した棟方。かつての「迷言」は「名言」となり、歴史に刻まれることとなったのです。

【名言1位】人生の最期まで挑戦をやめなかった正岡子規

明治の俳人、正岡子規(まさおか・しき、1867~1902年)もまた人生の困難と格闘しながら、挑戦することをやめませんでした。

22歳で喀血(かっけつ、肺などから出血して血を吐き出すこと)した子規は、当時は不治の病とされていた、骨の結核「脊椎カリエス」を患います。

大学時代には、夏目漱石(1867~1916年)との出会いを果たした子規。俳句に夢中になり始めた頃の悲劇でした。

子規は、約1.8メートル四方の自室で寝たきりの生活を送ります。精神状態が不安定になり、病床で絶叫し号泣したこともあったといいます。

そんな状態にもかかわらず、子規は34歳のときに、新聞で随筆の連載『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』をスタート。

翌年には『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』と名前を改めて、精力的に執筆を続けます。

実は、体調面を心配した新聞社が連載の開始を迷っていると、子規は「紙面に載せる余裕がなければ、枠の外にでもいいから載せてほしい」と懇願したそうです。

書くこと、そして、それが読者に読まれることこそが、子規の生きがいだったんですね。

亡くなる2日前まで原稿を書いた子規。激痛にのたうち回りながら、こんな境地に達していました。

《名言1位》
<悟り>とは<どんなときでも平気で死ねること>だと思っていたがそれは間違いで、<悟り>とは<どんなときでも平気で生きていること>であった

名言1位、正岡子規

どんなときにも平気で生きていく―。

それは決して簡単なことではありません。思うようにいかないことの方が多いのが、人生ですから。

それでも静かな情熱を燃やして、挑戦し続ける。それこそが生きる意味だと、偉人たちの名言や迷言は、いつでも私たちに教えてくれています。

編集:はてな編集部