享保(きょうほう)の改革を知っていますか?
江戸時代中期は、相次いで幕府運営の改革がなされました。享保の改革以外に、寛政(かんせい)の改革や、天保(てんぽう)の改革もありましたね。
この3つを指して「江戸時代の三大改革」といいますが、どの改革も試験によく出る大切な項目です。
なかでも享保の改革は、江戸時代の三大改革のはじまりでもある重要な改革といえます。
そこで今回は、享保の改革について、政策の目的や内容をわかりやすく解説していきます。
江戸の三大改革に関する年号の語呂合わせも紹介しますので、ぜひ一緒に覚えてくださいね。
享保の改革とは?目的や内容をわかりやすく解説!
「享保(きょうほう)の改革」とは、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)によっておこなわれた、江戸幕府の政治の立て直し改革のこと。
享保の改革の主な目的は、「財政改革」と「安定した幕府運営」でした。というのも、吉宗が将軍に就任した頃の江戸幕府は、かなり財政事情が悪化していた時代だったからです。
そこで吉宗は、行き詰まった幕府政治を再建するべく、江戸初期の家康の政治を理想にいろいろな改革を進めたのです。
第8代将軍として1716年から1745年まで29年間にわたり江戸幕府を運営した吉宗。彼が将軍に選ばれたのは、単に血筋だけが理由ではありません。
それまで紀州藩主として、贅沢な暮らしを戒め節約を中心とした生活を基本とする質素倹約(しっそけんやく)を軸とした藩政改革で実績を上げていたことも大きな理由でした。
その紀州藩での経験をもとに、将軍として江戸幕府の改革に着手したのです。
享保の改革は1716年!年号の語呂合わせの覚え方を紹介
江戸中期はさまざまな幕政改革がおこなわれており、ひとつずつ整理して覚えていく必要があります。
ここでは、1716年に始まった「享保の改革」の年号の覚え方を紹介します。
享保元年から享保20年の出来事一覧を年表で紹介
ここでは、吉宗が8代将軍に就いた享保元年から20年間の改革の歴史を年表で見ていきましょう。
元号 | 西暦 | 出来事 |
---|---|---|
享保元年 | 1716年 | 徳川吉宗、8代将軍に就任 |
享保2年 | 1717年 | - |
享保3年 | 1718年 | 町火消設置令 |
享保4年 | 1719年 | 相対済令の発令 |
享保5年 | 1720年 | 火消制度(いろは組47組、本所・深川16組)を整備 キリスト教に関係のない洋書輸入を解禁 |
享保6年 | 1721年 | 目安箱を設置 |
享保7年 | 1722年 | 上げ米令の制定 小石川養生所を開設 定免法を導入 |
享保8年 | 1723年 | 足高の制 |
享保9年 | 1724年 | 倹約令の施行:衣服の売買を制限 |
享保10年 | 1725年 | - |
享保11年 | 1726年 | - |
享保12年 | 1727年 | 公事方御定書制定開始(完成は1742年) |
享保13年 | 1728年 | 「五公五民制」を導入 |
享保14年 | 1729年 | - |
享保15年 | 1730年 | 上げ米令の廃止 買米令(大名に対して)を出す |
享保16年 | 1731年 | - |
享保17年 | 1732年 | 享保の大飢饉 |
享保18年 | 1733年 | - |
享保19年 | 1734年 | - |
享保20年 | 1735年 | 中御門天皇が譲位(享保年間の終了) |
徳川吉宗が享保の改革でおこなった8つの政策
先述したように、享保の改革の主な目的は「財政改革」と「安定した幕府運営」にありました。
当時の財政収入のほとんどが農民からの米(年貢)だったため、米(年貢)の取り方を工夫した吉宗は「米将軍」とも呼ばれるようになります。
しかし、年貢だけでなくさまざまな分野での改革がおこなわれたことも享保の改革の特徴。そのなかから、主な改革を紹介していきます!
①目安箱
「目安箱」とは、1721年に、町人や百姓の不満や要望を聞くため、江戸城和田倉門近くの評定場前に設置した投書箱のこと。
それまでの将軍は、側近の意見をもとに幕府運営をおこなってきましたが、吉宗には「庶民の声を直接聞こう」という姿勢がありました。
投書には必ず名前と住所を書くことになっています。この時代、将軍に意見を言うなどとても特別なことだったため、庶民が名乗って意見を言うにはかなりの覚悟が必要だったはず。
しかし、吉宗は投書を自ら読み、庶民の意見を積極的に取り入れたのです。
たとえば、目安箱の意見をもとに設置されたのが小石川療養所。
貧民が病気治療を受けられていないことを訴えた投書を読んだ吉宗は、小石川療養所を建設し、無料で治療が受けられる施設をつくりました。
この施設は、明治維新まで140年ほど続けられ、貧民の療養所として重宝されたのです。
投書のなかには、記名式とはいえ幕政や役人を批判するものもありました。
この時代、幕府を批判するのは死罪になってもおかしくはないこと。しかし吉宗は「言いにくいことをよく言った」として、投書した人物に褒美を出したこともあったのだそう。
このように目安箱は、庶民の声を幕政に反映させるのはもちろん、庶民の不満のはけ口とすることで安定した幕府運営を目指したともいえるでしょう。
②五公五民(ごこうごみん)
江戸時代の収穫の配分を、吉宗は「五公五民」としました。
「五公五民」とは収穫の50%を領主(公)が取り、50%を農民(民)のものとする年貢の取り立て方のことをいいます。
50%ずつというと平等のように見えますが、享保の改革以前は四公六民だったのです。
農民の暮らしは三公七民でかろうじて成り立つともいわれていました。五公五民で生活が苦しくなった農民は、農業を放棄したり一揆を起こして訴えたりするようにもなりました。
③新田開発
年貢の増収を図るために、吉宗は五公五民のような増税策だけでなく新田の開発にも力を入れました。
それまでも新田開発はおこなわれていましたが、吉宗時代の新田開発は技術的にそれまでと大きく変わります。
伊奈流から紀州流へ
それまでの新田開発方法は伊奈流(関東流)と呼ばれるもので、必要となる農業用水を確保するために湖沼や溜池などのある場所を中心に開発がおこなわれました。
当時の水を堰き止める築堤技術や河川管理の方法では、河川の中流、下流域など水量の多い地域の開発ができなかったのです。
しかし、吉宗が藩主を勤めていた紀州藩には高い土木技術がありました。吉宗は技師を紀州から呼び寄せ、中・下流域の肥沃な地帯を開発していきました。
この紀州の技術を使った新田開発を、紀州流と呼びます。
紀州流による新田開発により、幕府に納められる年貢は10年間で10%以上増え、幕府財政が黒字化する大きな要因となったのです。
④公事方御定書(くじかたおさだめがき)
享保の改革では、法制度面も大きく整備されました。
江戸幕府運営の基本的な法律を文書としてまとめたものを、「公事方御定書」といいます。
公事方御定書は上下2巻からなっており、上巻は警察や行政に関する81の法令をまとめ、下巻は今までの判例を条文化した法令集となっています。
それまでなかった法律の体系をつくるのはかなりの難事業だったようで、完成までに15年を費やしたのだそう。
吉宗は、子どもの頃から法律好きとして知られており、公事方御定書はその知識を応用してつくられたもの。そのため、吉宗は「米将軍」とともに「法律将軍」とも呼ばれています。
もう一度社会に戻れる「更生」の思想
公事方御定書の特徴は、「更生」という思想を盛り込んでいることです。
それまで犯罪者に対しては、死罪や追放罪などが言い渡されてきました。「犯罪者は共同体から永久に排除する」という考え方が判例の中心でした。
しかし、公事方御定書では「犯罪者は、更正すればもう一度社会に戻れる」という考え方が採用されています。
たとえば、再犯しやすい窃盗罪の場合、1度目はむち打ち、2度目は入れ墨、3度目は死罪というように、死罪までに立ち直らせるチャンスを与えているのです。
これは、子どもの頃から吉宗が好んで読んでいた中国の法律思想に由来するといわれています。
⑤倹約令
華美な生活を戒める倹約令は江戸時代に何度も発せられていますが、享保の改革での「倹約令」は、可能な限り支出を抑え歳出を厳しく抑える「財政緊縮」が目的でした。
いつの時代も、財政を立て直すためには収入を増やして支出を抑えるしかありません。
吉宗は支出を抑えるために、倹約生活を自ら実践して見せ、肌着は木綿しか身につけず、鷹狩に行くときの羽織や袴も木綿と定めていました。
また、毎日の食事は一汁一菜と決め、その回数も1日に朝夕の2食とすることで、自ら率先して範を垂れたのです。
⑥江戸町奉行
享保の改革では、幕府財政の安定以外にもさまざまな改革がおこなわれました。
人口が100万人に達したともいわれる江戸の町の行政改革や町づくりを担ったのが、江戸町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)でした。
町火消を組織
江戸町奉行大岡忠相の業績のひとつに、「町火消を組織したこと」があります。町火消とは、地域の町人による自主的な消防組織のこと。
また、火事の多かった江戸の町の防火対策として、瓦葺屋根や土蔵などの使用を奨励したり、広小路(ひろこうじ)や非除地(ひよけち)をつくり延焼防止を図ったりしました。
広小路は、江戸に限らず日本全国の大都市につくられました。
あなたの町にも広小路と付く地名がありませんか?享保の改革にゆかりがあるかもしれませんね!
人情に厚い大岡裁き
江戸の町の行政改革とともに、江戸町奉行はさまざまな町のトラブルに対して裁判所のような役割も担いました。
大岡忠相の判決は、万民に公平で、人情が厚いと評判となり、「大岡裁き」と呼ばれるようになりました。
そのエピソードは、現代でも時代劇の題材や、歌舞伎や落語の演目になるなどして語り継がれています。
⑦定免法(じょうめんほう)
賄賂や不正を嫌う吉宗は、享保7年に年貢の計算方法に「定免法」を採用します。これは、過去数年の平均収量を基準に、年貢を定額にする計算方法。
それまでは「検見取法(けみどりほう)」と呼ばれ、年ごとの生産高を基準として年貢を決めていました。
しかし、検見取法は年貢額を役人のさじ加減で変えられることができたため、不正の温床ともなっていたのです。
この定免法により、不正が防止されるとともに幕府財政も安定。生産力が増えるにしたがって、農民が裕福になる制度でもありました。
⑧上げ米の制(あげまいのせい)
「上げ米の制」は、享保7年(1722年)に定められた制度。財政悪化がひどかった幕府は、財政再建の一環として、大名から石高1万石に対して100石の米を納めさせることとしました。
その代わり、藩にとって負担が重かった参勤交代の江戸在府期間を、1年から半年に短縮することとしたのです。これが上げ米の制です。
江戸時代は、幕府は幕府領(天領)から年貢を取って運営し、大名は自分の藩の領地から年貢をとって運営していました。
各藩は徳川幕府に忠誠を誓いますが、財政的には独立採算制だったのです。
しかし、上げ米の制は「大名からお金をもらって運営をする」制度であり、幕府の権威を大切にした吉宗にとって屈辱的なお願いごとだったに違いありません。
ときが経つにつれ新田開発のときの政策が実を結び幕府財政が好転したこともあり、
恥を忍んではじめた上げ米の制は1730年に廃止されます。
享保の改革は成功?失敗?改革の結果どうなったのか
さまざまな政策を精力的に実行してきた吉宗の享保の改革ですが、結果的に成功したといえるのでしょうか?
将軍になった当時に悪化していた幕府財政は、吉宗の積極的な施策で大きく黒字化しました。
また「公事方御定書」により法制度も整備され、「江戸町奉行」の手腕もあり安定した幕府運営ができるようになりました。
これらの点から見れば、享保の改革は成功したといえます。
ただその一方で、年貢が「五公五民」に引き上げられたことは、農民にとって大きな負担となりました。
また、「定免法」も豊作時にはよかったものの、凶作時には重い負担となったのです。
これらの改革で農民による一揆が増えたことを考えると、農民への負担によって実現した改革ともいえるでしょう。
また、さまざまな改革のなかにも数年で取り下げてしまったものも多く、社会は混乱に陥りました。
享保の改革は、行きあたりばったり、一時しのぎの政策を乱発したとの評価もあるのです。
【江戸の三大改革】 享保・寛政・天保の改革を語呂合わせで整理しよう
江戸時代は、お米の取引を中心にした経済から貨幣経済に大きく舵を切る時代です。
吉宗はその過度期にあって、まずは従来からの年貢システムによる収入の増大を図りました。
しかし、吉宗以降の江戸時代は、農民の間にも貨幣経済が浸透していきます。
年貢からしか収入のなかった幕府財政は、享保の改革以後も継続して改革をしていかなければなりませんでした。
そこで幕府は、享保の改革のほか、寛政の改革、天保の改革をおこないました。これらを「江戸の三大改革」といいます。
ここでは、そんな江戸の三大改革を簡単に覚えられる語呂合わせを紹介していきます!
改革名と中心人物をセットにした覚え方【語呂合わせ】
まず、江戸の三大改革とその中心人物を覚える語呂合わせを紹介します。
改革名と改革年をセットにした覚え方【語呂合わせ】
また、改革名と年度をセットにして覚える語呂合わせもあります。
三大改革は1700年代からはじまっていることを前提に、上記の語呂合わせで覚えてみてくださいね。
まとめ
享保の改革について、改革の目的や内容、年号などの語呂合わせを中心に紹介しました。
徳川吉宗や大岡忠相を中心とした人々の人情や優れた手腕によって、江戸幕府が大きく変わっていったことが理解できたことと思います。
しかし、時代は貨幣経済の浸透がいっそう進み、米(年貢)の収入に頼る幕府の財政は再び悪化。寛政の改革や天保の改革が必要となってくるのです。
享保の改革は、このような江戸の三大改革のはじまりでもあるため、しっかりと理解しておきましょう!