奈良時代、平安時代、鎌倉時代…日本の歴史を学んでいると、さまざまな「時代」が登場します。
そんな時代の変わり目のなかでも、現代の私たちの生活に大きく関わってくるのが、外国との交流が始まる江戸時代です。
とくに江戸時代で重要な出来事といえば、約260年間続いた江戸幕府が滅ぶきっかけとなった「大政奉還(たいせいほうかん)」です。
今回は、その「大政奉還」についてわかりやすく解説します!この記事を読めば、大政奉還のことだけでなく、「江戸時代の終わり」についても理解できるようになりますよ。
大政奉還とは?内容をわかりやすく簡単に解説!
「大政奉還」とは、「大政(政権)」を、朝廷に「奉還(返すこと)」を意味しています。
“返す”というのは「誰から誰に」でしょうか。
これは、「幕府から朝廷(天皇)に政権を返す」ことを意味します。
「幕府」とは、武士(侍)がおこなっている政治の場所、あるいは仕組みのことです。
それに対して「朝廷」は、天皇や貴族が中心に政治をおこなう場所や仕組みのことをいいます。
日本では、さかのぼること鎌倉時代(1185年頃~1333年)から、“武士”が政治の中心にいました。
朝廷から「征夷大将軍」という役職を任命された武家政権(幕府)のトップが、“朝廷から権力をあずかって政治をおこなう”という仕組みが、約700年続いていたのです。
700年もの間、幕府が預かっていた政治の権力を朝廷にお返しする、つまり“武士による政治を終わりにする”という歴史的なイベントが「大政奉還」なのです。
大政奉還は1867年!年号の語呂合わせの覚え方を紹介
「大政奉還」がおこなわれたのは、1867年(慶応3年10月)のことです。
当時の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が京都の二条城で、朝廷に対して「政権をお返しします」と申し出ました。
この「1867年」を語呂合わせで覚えましょう。
「もう、徳川家が威張れない社会になってしまった」「徳川慶喜は内心嫌々ながら大政奉還したのだろうな」と、イメージすると覚えやすくなりますよ。
徳川慶喜が提出した大政奉還の上表文と現代語訳を紹介
1867年10月、京都で行われた大政奉還で、徳川慶喜は「上表(じょうひょう)」を朝廷に提出しました。
上表とは、天皇に渡す文書のことをいいます。
上表には具体的にどのようなことが書かれていたのでしょうか。原文と照らし合わせながら見て行きましょう。
まず、朝廷と幕府の歴史を振り返っています。長い間、武家が政治の中心にいたことを述べています。
しかし現状は、自分のせいで政治がうまくいっていない、と報告しています。
近年増えてきた外国勢に対抗するためには「このままではいけない」「政権を朝廷に返し、権力を朝廷に集めて日本をまもろう」、そうすることで「諸外国と肩を並べられるようになるだろう」と続きます。
「自分ができることはこれだけだ」と強い意思を見せ、上表は締めくくられます。
700年の歴史をひっくり返す文章としては簡潔すぎて驚きますが、経緯と現状、未来を見据えたうえでの決断が簡潔にしたためられていて、わかりやすい内容ですね。
大政奉還の表明がおこなわれた場所は京都「二条城」
ここで少し、大政奉還の背景を見てみましょう。なぜ、幕府は政権を返上することにしたのでしょうか。
1603年に徳川家康が江戸幕府をひらいてから、社会的にも文化的にも栄えていた江戸ですが、第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の頃から幕府の財政は苦しくなりました。
その後、倹約をこころがけるなどの幕政改革が繰り返しなされましたが、持ち直すことができませんでした。
一方、海外では17世紀終わりごろから19世紀にかけて「産業革命」がおこり、産業の発展に必要な、より多くの原材料や市場拡大を求め、欧米諸国がアジアへも進出してきます。
1853年にはアメリカからペリーが来航し、政策として鎖国をしていた江戸幕府に対して、開国を求めてきます。
最終的に江戸幕府は開国しますが、このように外国のいいなりになる幕府に対して不満を持つ人々や、もう幕府には力はないと考える人々が、幕府を倒し(倒幕)、新しい国家の建設を目指すべきだと動き始めました。
その勢力があまりに強いので、「このままでは徳川家が危ない」と慶喜は大政奉還を決めました。
政権を朝廷に返せば江戸幕府は消えるので「倒幕の理由がなくなり、徳川家をつぶす名目がなくなる」というわけです。
なぜ江戸城ではなく「二条城」なの?
大政奉還は京都の二条城でおこなわれました。
江戸幕府の本拠地は、江戸(現在の東京)にあります。
なぜ、江戸城ではなく、二条城で大政奉還がおこなわれたのでしょうか。
その大きな理由は「慶喜が切羽詰まっていたから」です。
当時、慶喜は京都にいました。そして、“いつ倒幕されるかわからない”そのような状況にありました。
江戸に戻っている余裕はない、そうした中での大政奉還だったのです。
実際、同じ京都で、朝廷から倒幕の許可をもらおうと、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)も秘密裏に動いていました。
倒幕許可が出されたのは10月14日。大政奉還上表と同じ日です。
まさにギリギリ間に合った大政奉還だったのです。
大政奉還と坂本龍馬の関係について
坂本龍馬(さかもとりょうま)は、幕末のヒーローとも呼ばれる、土佐藩(現在の高知県)出身の武士です。
坂本龍馬といえば、「日本を今一度せんたくいたし申候」という有名なフレーズがあります。
激動の幕末にあって「日本の未来を守りたい!」「新しい日本をつくりたい!」と強く願っていたひとりといえるでしょう。
薩摩藩や長州藩は、武力を使って幕府を倒し“新しい政府をつくろう”と考えましたが、坂本龍馬は“武力を使うことはさけたい”と考えました。
そこで、「大政奉還」を徳川慶喜に提案したのです。
表向きは政権を返上しても、「朝廷には政治をとりおこなう力がないので、結局は朝廷のもとに幕府を含めた諸藩の連合政権がつくられ、そこで徳川慶喜も引き続き政治をおこなうことになるだろう」という計画でした。
しかし、このやり方に薩摩藩と長州藩は納得できず、大政奉還の2か月後の1867年12月に、幕府の知らないあいだに征夷大将軍職を廃止して、天皇を中心とした新政府を立ち上げたのです。
それが「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」です。
新政府のメンバーに、徳川の名前は含まれていませんでした。
こうして、長く続いた徳川の時代ともいえる江戸幕府は滅び、約700年続いた武家政治も、約260年続いた江戸時代も、終わることとなりました。
大政奉還で天皇に政権返上後、徳川慶喜はどうなった?
大政奉還後、計画通りに進まず政治的主導権をにぎる夢を断たれた徳川慶喜は、残っていた権力を保持しようとしました。
しかし、反発を抱いていた新政府が“武力によって旧幕府を倒そう”と戊辰戦争(ぼしんせんそう)を起こします。
その結果、「新政府 vs 旧幕府」の戦いは、旧幕府側の敗北という結末を迎えます。
当時の慣習を思えば、徳川慶喜の首がはねられても不思議はありませんが、「天皇家から徳川家へ嫁いでいた和宮(かずのみや)が間に立ったこと」や、「戦意喪失した慶喜がおとなしく謹慎していたこと」などから、慶喜の“命”と「徳川」という名前が、両方とも存続できるようになったのです。
1869年9月に謹慎をとかれた徳川慶喜は、その後、政治の世界から離れて、写真・釣り・狩り・弓・刺しゅうなどの多くの趣味を楽しみながら余生を過ごしました。
また、徳川慶喜が将軍としての地位にいたのは、実はわずか2年だったのです。
新政府との戦いでは最後まで戦い抜くこともなく、敵前逃亡するなど武士らしからぬ行動もあったことから「臆病者」などの悪評もあります。
しかし一方で、こうした決断のおかげで戊辰戦争が長引くことがなく、江戸城は無血開城され、日本は欧米に侵略されることもなく、スムーズに近代化が進んだのではないかという見方もあります。
徳川慶喜はその後、明治35年(1902)年に貴族の称号である「公爵(こうしゃく)」となり、公爵議員として貴族院の議員を務めました。
30年以上ぶりに、日本の政治の世界に戻ってきたことになります。約8年間議員を勤めて1910年に引退。1913年に77歳で病によりその生涯を閉じました。
日本最後の将軍は、江戸・明治・大正時代を生き抜いた、徳川将軍のなかで最も長生きをした人物となりました。
大政奉還のまとめ
今回は、「大政奉還」について解説しました。ポイントをまとめると…
日本において約700年続いた武士による政治、約260年続いた江戸幕府は、1867年の「大政奉還」により、“政権を朝廷に返す”という歴史的な出来事によって終わりました。
新しくつくられた政府は、「会議を開き、世論に基づいて政治をおこなうこと」を目標に掲げています。
この目標こそが、現代にも続いている政治の基盤になっているのでしょう。時代は明治に移り変わり、ここから日本の近代化がはじまるのです。